三種の神器と清水区草薙って関係あるの?
調べたらいろいろワケがわからなくなった件
人間が生まれる前に神様がたくさんいて世界を作った。
なんていう「創世記」をはじめとして、日本にはもちろん世界にも神話が残っていますよね。
そんな神話の世界に興味を持つような方も多いのではないでしょうか?
僕も、そのひとりです。
静岡には神話ゆかりの地名があった!
僕が神話に興味を持った一番のきっかけは、学生時代の国語の授業。「平家物語」に「三種の神器」が出てきたときでした。
それまで、作り話だとばかり思っていた神話が、歴史を語る上でも登場したことに惹かれたのです。
壇ノ浦の戦いを描いた絵図。源平合戦の最後だとされ、その大規模な戦いの様子が伺えます。出典:Wikipedia
この三種の神器、いまでも熱田神宮や宮内庁に保管されているとかいないとか、さまざまな説があるようですが、神器のなかでも僕が気になったのは「草薙剣(天叢雲剣)」です。
その理由は、静岡市清水区と駿河区の間に位置する「草薙」という地名がそっくり一緒じゃないか!と思ったから。
これって、なんか関係あるんじゃ・・・。と考えた当時の僕は、先生に「草薙って、この草薙剣と関係あるんですか?」と尋ねてみたことがあります。そうしたら、「古事記を読んでみては?」と返されたのですが・・・。
(いや、古事記長いし・・・。面倒だからいいや)
と敬遠してしまい、結局この疑問は疑問のままに。そんな過去の無念(?)を晴らすべく、あらためて草薙剣について調べてみることにしました。
三種の神器「草薙剣」
10余年前と比べて技術も進歩し、インターネットで検索すれば古事記の概要はすぐにわかります。
で、それによれば草薙剣とはこんな経緯を持つ剣だそう。
- スサノオ(いわゆる三貴神の一柱ですごくえらい神様)がヤマタノオロチ(出雲にいたとされる怪物)を退治したときに尻尾から剣が出現した
- 剣に呪術的なパワーを感じたスサノオは天にいるアマテラスに献上
- ニニギノミコトの天孫降臨(日本を治めるために神様が降りてきた)の際に手渡された
- 代々天皇家は熱田神宮にいたがヤマトタケルの東征(奈良のあたりから関東を平定しにいく遠征)の際に護身・武器として手渡された
- 静岡の地で使った(!)
- 熱田神宮へと再び返されいまでも祭られている
静岡の地で使った!
なんと、古事記や日本書紀にもはっきりとこの記載があるとのこと。草薙は、これが地名の由来になっているに違いありません。
古事記に登場する「草薙剣」
この場面についてもっと詳しく知りたいと考えた僕は、実際に古事記を図書館で借りて調べてみることに。
現代語訳版の「ヤマトタケルの東征」を読んでいくと、草薙剣がヤマトタケルに渡された経緯と実際に使われた話について記載がありました。
参考にさせていただいたのは、現代語訳版の古事記(『歴史書「古事記」全訳』 武光 誠著 東京堂出版 2012年)。現代語訳なので、古文を読みたくない僕でもすいすいと読み進められました。
ヤマトタケル東へ旅立つ
さて、ヤマトタケルと草薙のエピソードについて、簡単にあらすじを紹介します。
九州平定を終えたヤマトタケルが都に戻ってくると、父である景行天皇はすぐさま単身での東征を命じます。
「ほとんど軍隊もつけず身ひとつで行けというのは、私に“死ね”ということなんですかね・・・?」と悲しむタケルに対して、叔母さんのヤマトヒメから草薙剣が授けられたとのこと。
そして、
「困ったらこれを開けなさい」
と、物語でありがちなセリフとともに、絹の袋も一緒に渡したそうです。
東征の道中、尾張国(愛知県)に入ったヤマトタケルは、手厚くもてなしてくれた国造(その地域の主)の娘のひとりを見初めて結婚の約束を交わし、さらに東へと向かいます。
草薙剣がヤマトタケルの最大のピンチを救う
険しい箱根を超えて相模国に入ったヤマトタケルは、ついに関東平野へと足を踏み入れます。しかし、そこで待ち受けていたのは悪企みをする相模の国造でした。
・・・
・・・ん? まぁ、とりあえず読み進めよう。
国造は、ヤマトタケルに「あの野原の沼にいる荒ぶる神を静めてください」と頼み込みました。ところが彼は、ヤマトタケルが野原に入って見えなくなるとの四方から火をつけます。
なんとこの頼みごとは、ヤマトタケルを亡き者にしようとした国造の策略だったのです。
絶体絶命のピンチにヤマトタケルは、叔母の「困ったら・・・」という言葉を思い出して絹の袋を開けます。するとそこには、火打ち石(古代に火を起こすために使っていた火花を散らす石。マッチみたいなものです。)が入っていました。彼はすぐさま策略を練ります。
ここからは大事な部分なので書籍から引用させていただきます。
かれは腰の草薙剣を抜いて自分の周りの広い範囲の草を刈り、一か所に積み上げていった。これで火は、近付いてこない。草を刈られた広場の中には、人間の背丈ほどもある草の山が出来ていた。倭建命※は、火打石で草の山を燃やした。大きな焚火である。焚火が周囲の空気を暖め、激しい風を起こす。
このような焚火を、向火という。向火を焚けば、焚火のそばに日は燃え広がってこない。こうしているうちに、野原の火は収まっていった。このあと倭建命は、悪企みをした国造を斬ってその死体を焼いた。そのためにそのあたりが焼津とよばれるようになった。
※ヤマトタケルの古事記での表記
って、えええ!?
要するに、ヤマトタケルは草薙剣で草を刈って火から逃げ延びたそうです。さらに、悪だくみをした国造を処刑し、焼津あたりで死体を焼いた・・・というエピソードが残っています。
なんか、いろいろ違った・・・
ともかく、草薙剣を使ったヤマトタケルの一説を取り上げてみましたが、なんだか予想とはいろいろ違いました。
まず、静岡は古来「駿河国」と呼称されるはずですが、古事記では箱根を超えて神奈川県あたりを指す「相模国」に入ったときの出来事だと・・・。
その上に、その場所は「焼津」と呼ばれるようになったと。
いや、草薙は・・・?
古事記読んだのに、結局解決してないじゃん。
「草薙」のイメージ。三種の神器の威力が示された貴重なシーンとしても知られているようです。でも、それを使ったのは静岡ではなくて・・・?
諸説ある地名由来譚
こうした神話を由来とした地名は日本各地に残っているのですが、今回のように現在の地名と古事記や日本書紀の場所と必ずしも一致しないこともあるようです。
これらの書物は各地の伝承をまとめて編纂されて作られる都合上、間違った情報が伝達されてしまうケースもあることが原因だとか。
「相模国だと思っていたけど、駿河国だった」くらいの違いは誤差の範囲内。
焼津と静岡市草薙くらいの距離は「ちょっと離れている」くらいの誤差。
みたいな感じで受け止めればOKのようです。
実際に、このあたりの地域には古くから同様の伝承が伝わっており、少し広い範囲で解釈されているそう。
※ちなみに日本書紀では、上記場面の舞台がきちんと駿河国になっています。
ということで、ちょっとあいまいになってしまいましたが、静岡市にある草薙の地名の由来は、「ヤマトタケルの東征でだまし討ちに遭ってしまった際、草を薙いだ」という話からつけられた地名。そして、この話から「焼津」という地名が誕生したことがわかりました。
で、じつはこのふたつの地にはヤマトタケルを祀る神社があるみたいです。
少しスッキリしない終わり方になってしまったので、次はその場所へ行ってみることにしました。
(イラスト:川名ひろ)