「映画の町撤退」も地元を創るために
過去と未来の100年をつなぐ静活の想い
かつては娯楽施設が建ち並んだ活気ある町「七間町」。
呉服町や両替町に対し直角に交わるこの道は「映画の町」「娯楽の町」として、100年にわたり親しまれた場所です。その間には、火事や震災、戦災によって何度も町は破壊されながら、そのたびに地域住民・地元企業の想いによって復興がなされました。
しかし1990年代以降、不況のあおりを受けてだんだんとシャッターも目立つようになってきてしまった2000年代。mitecoでは、昨年(2017年)11,12月でこの酸いも甘いも知る七間町に芽吹いた新しい息遣いを紹介してきました。
一方で、新しい芽が生えてくることだけでなく、この100年のアルバムの1ページ目から登場する会社が常に七間町を支え続け、発展をさせてきたことも忘れてはなりません。その会社は「静活株式会社」(以下、静活)。
静活株式会社が入る七間町所在の「江崎ビル」。
七間町の歴史を紐解くうえでも欠かせない「キネマ館」の開業や「名画座」「ピカデリー」「ミラノ」、そして「オリオン座」。数々のスクリーンを運営した静活は、まさに「映画の町」「娯楽の町」をつくりあげる役割を果たした会社です。
ですが、それらのスクリーンは2011年、新静岡セノバ最上階にシネマコンプレックス「シネシティ・ザート(ZART)」がオープンするとともに、すべてを閉鎖。七間町が少し寂しくなった、風向きを変えた大きな一因となった会社であることも事実です。
ともすれば、これまで取材をしてきたような「これからの七間町」に向かい合う人にとってはネガティブなイメージが強いのではないか。と感じていたため、特集内で取り上げることは予定できませんでした。
2018年オープン予定の新「キネマ館」は、静活の親会社江崎新聞店と創造舎による共同事業。良好な関係であることがわかる。
しかし、実際にはその真逆。ほとんどの取材先で、同社に対する考えは前向きなものだったんです。
たしかに、大量のスクリーンを閉鎖したことは、この街に少なからず影響を及ぼしています。でも静岡市の街中という枠で見れば相変わらず多くの人を集め、楽しませるという姿に変化はありません。
2019年に創立100年を迎えようとしている静活は、ちょっとずつ姿を変えながらもこの街へと人を集めている。では、これからの100年でいったいどのような姿になることを考えているのだろうか。
そんなお話しを静活で取締役を務める江崎亮介室長にお伺いしました。
七間町とともに育った静活
山口 |
こうして静活さんに直接お話をお伺いできる時間をいただき本当に嬉しいです。七間町をはじめとして、まさに「街づくり」を100年近くにわたり行ってきたわけですが、その創業はどのような形だったのでしょう。 |
江崎 |
まず静活は江崎新聞店を親会社に持つ興行会社でして、その江崎新聞店が1909年、10年後にあたる1919年に静岡活動写真株式会社(当時の社名)を創立しました。 |
山口 |
名前からして映画興行を当初から考えていたみたいですね。 |
江崎 |
そうですね。無声映画や活弁士のいる上映を行っていたことが記録に残っています。また当時は映画といっても、さまざまなものがあって、とくに「ニュース映画」※は需要がありました。
関東大震災の折には初代社長、江崎鋹兵衛(えざきちょうべい)が直接現地へ行きフィルムに収めてキネマ館で上映したこともあったみたいです。 |
山口 |
なにかとキネマ館はすごい歴史がありますね。 |
江崎 |
キネマ館に関していえば、諸説ありますが「株式会社としてはじめてスクリーンを運営した映画館」とも言われてます。 |
山口 |
そんなことも・・・! しかし、開館当時は演劇上演をする場所だったとも聞いています。 |
※ニュース映画:かつては時事のニュースをサイレントもしくはトーキー映画として映画館で上映。テレビのなかった時代には貴重な動画情報として、多くの人が映画館で最新ニュースに触れていた。
1922年に開館した「歌舞伎座」。のちに静岡大火で焼失。
江崎 |
そうでしたが、だんだんと映画に置く比重が大きくなりました。その後も弊社は、演劇や映画だけでなく、プラネタリウムやスケートリンク、調べてみると当時は屋上にパターゴルフ場なども運営していまして。映画館は主体ではあったんですけど、「静岡の街中で興行をする」というところが根っこだと思います。 |
山口 |
いまでいうと、静活さんではボウリング場やゲームセンターなどが入る「COSPAL」の運営もなさっています。 |
江崎 |
あそこはまさに初代「キネマ館」があったところで、創業の地ですね。 |
初代「キネマ館」があった創業の地とも呼べる場所にいまも建つ「COSPAL」。
山口 |
七間町のど真ん中。そういうところからも静活が七間町とともに歩いてきたのだな、と感じます。 |
江崎 |
キネマ館設立後も、七間町を中心に映画館をはじめとした施設を増やしていきました。シンボルだったキネマ館はもちろん、七間町に「賑わいをつくる」をミッションに取り組んできたことは間違いないです。 |
1960年前後に隆盛を極めた映画から90年代へ
かつてあった「オリオン座」。 画像提供:創造舎
山口 |
僕が知っている七間町の映画館というと、東宝会館さんを除いてそのほとんどが静活さんの運営。小中学生のころにもいくつか行きました。一番多いときでどれくらいあったんでしょう? |
江崎 |
最盛期は1950年代後半から60年代の前半にかけて。ちょっと資料を見てみると、静活会館に松竹劇場、有楽座、有楽会館、日活劇場、ミラノ、文化会館、アイスパレス、オリオン座、歌舞伎座、名画座・・・。 |
山口 |
とてつもない数だ・・・。 |
江崎 |
これは、私たちがというよりも映画業界自体に、大きな盛り上がりがあったときですね。静活が運営するのも静岡市だけでなく、旧清水市、沼津市なども含めると拠点数は30を超えていました。 |
1957年に開業した「静活文化会館」なかにはのちに「静岡ピカデリー」となる「静岡大映劇場」が入っていた。
山口 |
監督でいえば黒澤明、小津安二郎、静岡出身でいえば木下恵介。俳優だと三船敏郎や原節子が大活躍しているころですね。 |
江崎 |
まさに「映画は娯楽の王様」という時代だったんでしょう。やっぱりお客様もすごく入られたことが記録にも残っています。 |
山口 |
でも、テレビをはじめとした「新しい娯楽」が出てきて・・・。 |
江崎 |
宿命ともいえるのですが、縮小していくことになりました。とくに90年代以降はあまり業況がよくなく、売り上げも激減。赤字になったこともありましたね。 |
七間町からZART(ザート)へ
山口 |
90年代は不況もありましたが、2000年を過ぎてもやっぱり状況は。 |
江崎 |
大きく好転はしないですね。とくに映画館の運営という面では、シネマコンプレックス(シネコン)の登場が大きな出来事となりました。 |
山口 |
少し話は逸れますが、シネコンと普通の映画館ではなにが運営上の違いになるのでしょう? |
江崎 |
まず、スクリーン数と規模ですよね。ひとつの施設に5,6以上のスクリーンを持つシネコンに対し、通常の映画館というのは1館で多くても2,3スクリーン。映画上映のスケジュールを埋めやすいのがシネコンの大きな特徴です。
ただ、それ以上に大きいのは席数を振り分けて運営できるところで、公開から少し経ったものは徐々にスクリーンを小さくしながらも同じ映画館で上映できる。 |
山口 |
しかし、それは1番館、2番館※といったシステムも同じでは? |
江崎 |
今度は人件費で違いが出ます。なにしろシネコンなら上映室がすべてつながっていますから、ひとりの映画技師で同時にいくつもの作品が上映できるんです。
しかも、多くのシネコンはチェーンで他県にも施設を持っている。スクリーン数が圧倒的に違いますから、当然配給も取りやすいんですよね。多くの面で従来の映画館よりも効率的で効果的だと認めざるを得ません。 |
※1番館、2番館:新作映画の地域での封切館となる「1番館」でひと通りの上映が終わると、規模が小さい2番館へと上映を動かし、新しい映画をまた1番館で上映して・・・と興行を展開する方式。
シネシティ・ザートでは、フィルム映写機も設置。2018年1月にはイベント「フィルムノスタルジー」内でフィルムによる上映をおこなった。
山口 |
あ、なるほど。それでは地方の映画館は苦境に立たされてしまいますね。 |
江崎 |
実際に、地方の映画館は映画業界自体が最盛期よりも下火になったこと、シネコンが登場したことという2重のダメージで閉館に追い込まれたところが多いです。 |
山口 |
そして、静活さんは長らく拠点とした七間町から離れ「ZART(ザート)」への移転を考えるように。 |
江崎 |
流れとしてはその通りです。三島・沼津地区で運営する「シネプラザサントムーン」は、シネマコンプレックスを自社ではじめて作ってみて、そのノウハウを貯めようという意図もありました。 |
地元企業が地元のために奉仕する
山口 |
そのタイミングで新静岡センターを新静岡セノバへ建て替え、そこにシネコンを導入する予定だと聞いたと。 |
江崎 |
そうですね。実際には、セノバが決まったあとにもシネコンを入れるのかどうかについては静鉄さん(新静岡セノバの運営会社)のなかで議論があり、当然当社のほうでも移転すべきかどうかについて考え抜きました。 |
山口 |
mitecoでも度々出てきたことなのですが、2011年に移転をする際、これまで運営を続けてきた映画館をすべて閉館。七間町からは撤退をすることになります。
率直にお聞きしたいのですが、やはり反対運動はすごかったですか・・・? |
江崎 |
当時は私自身はまだ学生でしたが、帰宅途中にビラを受け取ることは何度もありましたね。「移転反対」もそうですし、厳しい言葉もありました。 |
※じつは、この当時の反対運動の記録といえるものがまだ、七間町名店街のWEBサイトにはページとして残っています。mitecoでは、そのアーカイブとしてこちらからリンクしますが、いまの七間町商店街の考え方や流れと必ずしも一致しているとはいえないかもしれません。その点には十分にご留意ください。
山口 |
ただ、こう言ってはなんですが、反対は想定できたのかな、と。静活さんにとっては、なにが決め手となったのでしょう? |
江崎 |
新静岡セノバの静鉄さんからシネコンが入ることが決まったと連絡いただいたとき、「まちをつくるのはその土地の人間であるべき」というメッセージをいただいたんですね。そして、私たちの社是は「情報文化の担い手として地域社会に奉仕する」というものです。
外から持ち込まずに済むのであれば、そうすべきではないかと考えたんです。そこからサントムーンのノウハウのフィードバックを含め、あらためてZART(ザート)への準備を開始しました。 |
積み上げた経験は七間町に還元する
山口 |
セノバができてから、人通りは活発になりましたね。ZART(ザート)へ移転したあとでそれを感じることはありましたか? |
江崎 |
そうですね。これまでマルイや松坂屋があのあたりの目的地だったのが、セノバまで延長されて周辺にもお店ができました。いま駅前と同じくらいの人通りがあると聞きますので、集客に寄与できていてよかったなと思いますね。 |
山口 |
映画館の枠組みで見ても、外からのシネコンがこなかったことで、映画館が共存できる街を維持したと思うんです。
たとえば、シネコンが地域との協調性を持たずに配給をしたら、アカデミー賞受賞作品のような集客が見込めるものを一手にやってしまいますが、静岡市の街中ではないですよね。 |
静岡市にはZART(ザート)以外にも、シネ・ギャラリーや東宝会館といった映画館があり、それぞれに特色をもっています。
江崎 |
なにか特別な話し合いをしているわけではないのですが、その点の留意はあります。「昔からそうやってきたし、いまもそれでやっている」というのに近いかもしれません。 |
山口 |
そういう意味でも、静岡にZART(ザート)ではなくほかのシネコンがきたらと思うと・・・たらればの話ですけど、ちょっと怖いですね。一方で七間町に対する気持ちというのはどうなんでしょう? |
江崎 |
それはもちろん、いまでも強く七間町への想いは持っています。私たちは七間町とともに歩んできたし、「そこに対して還元するんだ」という気持ちは切らしたことがないです。これまで100年間お世話になった土地ですし、それがZART(ザート)によって変わることはありません。
ゆくゆくは30年先も、50年先も、願わくば100年先にもやはり七間町の道を歩きたいという気持ちでいます。それが静活にとっての使命ではないかと思っているんです。 |
このフィルムはZART(ザート)へ移転する前に、オリオン座をはじめとした映画館で流すためわざわざ作られたもの。デジタル環境がメインとなった後でも、フィルム環境への適用を忘れない静活の想いが知れます。
山口 |
その言葉が聞けて、本当に嬉しいです。
多くの映画館を閉鎖しながらも静活ボウリングビルの維持だったり、新キネマ館(厳密には人宿町)のオープンだったり、そういうところからも七間町への想いは伺えますが、今後の七間町へはなにか展開があるのでしょうか? |
江崎 |
まだまだ話せないものも多いんですが、七間町でなにかをやるということは確実に(笑) |
山口 |
それはどんな形かというのも・・・? |
江崎 |
具体的なことは申し上げられないですが、模索中でもあって、この点は吟味に吟味を重ねて決めていきたいなと思っています。さまざまな事業を通して、私たちは「興行」という形で、また他の業界や店舗とも協力しながら「人を集める」という経験を積み上げてきました。
もちろんこれは七間町にも還元したい。たしかに主事業である映画館は移転をしましたが、本社所在地も興行をはじめた土地も七間町で、しかもまだ持っているんです。だから、ここは大切にして次へと進めていきたいんです。 |
山口 |
心強いお言葉ありがとうございます。いち静岡市民として、次の一歩に大いに期待しています! |
これからの100年に向けて
ZART(ザート)ができたとき、多くの人は静岡の街中にシネコンができたから、映画が観やすくなったと感じたかもしれません。しかし、一方で古くから映画館のある町として知られた七間町にしてみれば、それはいささか寂しいことだったとも言えます。
見方によっては、裏切り者と罵られても仕方ないような街の大きな変化を起こした静活。でも、ZARTの名前はオリオン座の「座」を残し、さらに「ART」を加えたものです。これまで紡いだ「七間町」という町との歴史が同社の中には強く根付いていることがはっきりとわかります。
まちづくりでは新しいものを取り入れるとき、その町の文化や歴史を知っている方が積極的に携わっていくことで、根付いていないものを定着させるための「つなぎ」の役目を果たしているのでしょう。
静岡市を古くからつくり続けてきた静活はまさに「地元の企業が地元のためにやることが大切」というメッセージを残してくれました。こうした歴史あるヒトや企業が責任を持ってくれているからこその「奇跡の商店街」なのかもしれません。
僕は、静岡という街が一段と好きになりました。これからも楽しく「おまち」を歩ける。そういうイメージができたからです。