あの五・一五事件の標的にもなった興津坐漁荘
情緒あふれる日本家屋に隠された警備の秘密
行楽シーズンと呼ばれる時期になると、旅行サイトや雑誌を開いて行きたい場所を探す方もいるのではないでしょうか? かくいう僕も旅行好きで、とくに京都をはじめとした歴史を感じる日本家屋の街並みを眺めに出かけることも多いです。
とはいえ、長期休暇がないとなかなか遠出は難しいもの。そこで、近場でも古き良き日本家屋に訪れることはできないか、と調べてみて見つけたのが「坐漁荘」です。
この邸宅は最後の元老としても知られる、公家の出身で明治維新の立役者のひとり、「西園寺公望」さんが住んでいたお宅ということで取材に訪れてみました。
⇒『最後の元老が住んだ興津の別宅 激動の時代を生き抜いた日本家屋に触れる』
すごいぞ! 坐漁荘の警備
前回の記事では、坐漁荘とそれを建てた西園寺公望さんについて紹介しました。じつはこのときの取材でわかったことがもうひとつあります。
それは、「坐漁荘の警備がすごい!」ということ。
考えてみれば当たり前なんですが、西園寺公望さんは政府の要人中の要人。西園寺さんが坐漁荘に移り住んだあとには、日本政府の要人がたびたび訪れ、「坐漁荘詣(興津詣)」という言葉まで生まれました。
一見、質素な日本家屋にしか見えませんがじつはたくさんの仕掛けがあって・・・?
つまり、坐漁荘は当時の政治家にとってはすごく大切な拠点です。警備が薄いわけがありません。
しかも、社会の授業に登場した昭和の大事件、「五・一五事件」や「二・二六事件」では、興津坐漁荘も標的のひとつになったとも言われています。
それらに対抗するために西園寺さんは、さまざまな仕掛けをこの優雅な日本家屋に施していたのでした。
1.2階からでも誰が来たかが一目でわかる! 雪の降らない坐漁荘に雪見窓
前回の記事をご覧いただいた方はご存じかと思いますが、坐漁荘の2階部分は客間です。ここで政府の偉い方が西園寺さんと対談していました(晩年には1階の応接スペースを使うようになったそうです)。
写真がその客間です。
そして写真右下に写っている窓。いったい何を見るためのものだと思いますか?
ひょっとしたら、県外の方であればわかる方もいるかもしれませんね。
というのも、この窓は「雪見窓」と呼ばれるもの。その名の通り降雪量を伺う目的で取り付けられる窓です。しかし、温暖な興津には雪が降ることはめったになく、雪を見るために作られたわけではありませんでした。
じつはこれ、窓から玄関前がのぞけるような構造になっています。つまり、警備上の目的、西園寺さん自身が誰が来たかを見るために付けられたものなのです。
さらに、これと併せて警備上の効果をもたらしているのが、坐漁荘の周囲に敷き詰められた子砂利。
一見すると何の変哲もない玄関への道ですが・・・。
坐漁荘では正門をくぐると、玄関までを子砂利で敷き詰められた小道を歩くことになります。そしてこの子砂利の上を歩くと、独特の音が周りに響き渡ります。
たとえば、神社の境内に子砂利が敷かれていることもありますよね? あの音が鳴るわけです。
ということは、西園寺さんが誰かと話しているときに子砂利を踏む音が聞こえれば・・・
こちらから覗くとすぐに誰が来たかが確認できる、というわけです。
ちなみにこの子砂利ですが、玄関だけでなく縁側にも敷かれています。
もうひとつの出入り口となりうる縁側にも、子砂利は敷き詰められており、まさに盤石です。
坐漁荘の周りはすべて子砂利という状況ですから、どこから侵入しようにもどうしても音が鳴ってしまいます・・・。これでは西園寺さんを狙いに来た刺客もお手上げかもしれませんね。
2.二条城や竜安寺で有名な鶯張りの床が坐漁荘にも
坐漁荘の2階の客間は対談の場として利用されただけでなく、来客の方が寝泊まりするのにも使われました。雪見窓は坐漁荘に泊まられた政府の要人にとっても、大変ありがたい仕組みだったに違いありません。
しかし、もし話に夢中になったり寝てたりして、砂利を踏む音に気づけなかったら・・・?
大丈夫です。安心してください。そんなこともあろうかと、2階にはもうひとつの仕掛けがありました。それが、鶯張り(うぐいすばり)の床です。
鶯張りといえば、京都にある竜安寺や二条城に使われていることで有名な床です。歩くたびにウグイスの鳴き声のような音が響くことからこう呼ばれています。
鴬張りの床は音が優美で、自然を感じさせる趣きがあり、防犯上の目的でお城やお寺にも設置されています。
もちろん坐漁荘も例外ではありません。階段から客間へと行くためにはこの床を歩く必要がありますから、寝込みを襲うのは至難のわざというわけだったのです。
3.移設前の坐漁荘には護衛所があった
坐漁荘は西園寺公望さんが亡くなった1970年に、老朽化と保存の観点から愛知県の「明治村」に移設されました。現在、静岡市清水区興津にあるのは、2004年に当時の図面をもとに復元されたものです。
復元にあたっては移設前の坐漁荘がほとんど完全再現されましたが、じつはすべての建物が再現されたわけではありません。
再現されたのは、主に母屋として使われた家屋の部分と正門や庭といった部分です。しかし、本来の坐漁荘には、いくつもの離れや小屋が建てられていました。離れなどは坐漁荘で配布されている「移設前の坐漁荘」という資料で見取り図を確認できます。
この資料から移設前の坐漁荘の全貌を伺い知ることができます。
見取り図を見ると、正門のちょうど反対側には「警護詰所」がありました。
別宅で東京から離れた興津の地にあるお屋敷にもかかわらず、常時ここには警備員さんがいたようです。西園寺さんがいかに重要な人物であったかを示していますね。
4.書庫として使われていた離れはじつは・・・
坐漁荘の警備は、警備詰所や鶯張り、雪見窓といった仕掛けだけにとどまりません。残念ながら現在は残っていませんが、書庫にもその秘密が隠されていました。
書庫は湯殿(お風呂場)の向かい側に配置されていました。
この書庫ですが、なんと鉄筋コンクリート造りだったといいます。日本家屋で随所に西園寺公望さんの趣味が詰め込まれた風情のある坐漁荘なのに、コンクリートの建物というのはかなり異質に感じませんか?
じつはこれ、緊急時の避難用の建物として、五・一五事件のあとに建設されたようです。台所からつながっているのは、家政婦さんが逃げ込みやすいように配慮されたから、とも考えられます。
しかし、離れの位置でお風呂場の近くとなれば、西園寺さん自身は逃げづらいのではないかと思ってしまいますよね。これにはきちんと避難経路が用意されていました。
というのも、この湯殿には書庫のほうへ小さな戸口が備えられており・・・。
写真右側に見えるのが緊急用の戸口。西園寺さんがここから出てくるとは悪党も夢にも思わないでしょう。
緊急時には、お風呂場から逃げられるようになっていたんです。しかも、西園寺さんがよく活動していた居間と応接間からほど近い場所に配置されており、万が一にもすぐ動けます。外への脱出するための戸口も近くにあるので、まさに完璧な避難場所だったのです。
なによりも見た目の優雅さを損なわない気遣い
気持ちのいい風の吹きこむ縁側にも砂利を敷き、さりげなく防犯の仕組みが取り入れられていました。
警備詰所に避難用の書庫と、万が一の防備にはぬかりのない坐漁荘ですが、書庫はあくまでもあとから作られたもの。五・一五事件によって危機感を抱いての策だったといえます。
しかし、西園寺さんはその身分や役職から、安全を十分に確保する意識がありました。その意識は坐漁荘のいたるところでうかがい知ることができます。
どの警備の仕組みもあくまで景観を損ねず、日本家屋の趣きを残したままで取り入れられているのが、坐漁荘の素晴らしいところ。公家で高貴な出身であるからこそ、家づくりに気配りをしたのでしょう。資料や造りを見て、知るたびに感嘆したり驚いたりするばかりでした。
外から見ても、やっぱりそんなに秘密のある家屋にはとても見えませんね。
静岡県内で風流のある日本家屋を見学に行きたい、という方はぜひ清水区興津にある坐漁荘に足を運んでみてはいかがでしょうか? ここで紹介したさまざまな防犯対策だけでなく、細かい部分まで趣向を凝らした造りや当時の資料も多く展示されています。
昭和ロマンを感じたい方にもおすすめですよ!