最後の元老が住んだ興津の別宅
激動の時代を生き抜いた日本家屋に触れる

  • posted.2016/09/01
  • 山口拓巳
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最後の元老が住んだ興津の別宅  激動の時代を生き抜いた日本家屋に触れる

古き良き日本家屋の佇まいが好きです。こんにちは、miteco編集部の山口です。

日本国内では、昔の日本家屋や著名人の邸宅がそのまま残り、人気の観光スポットになるケースも多いですよね。京都や奈良はもちろんのこと、小京都と呼ばれる金沢市や鎌倉、各地の温泉地などには古い町並みが残っています。

古い家屋は住んだこともないのに、どこかノスタルジックな気分にさせてくれるもの。静岡にもそんな素敵な場所はないのかと調べてみると、興味深いお宅「坐漁荘」を発見しました。

 1920年に建てられた「坐漁荘」

坐漁荘は、明治から昭和にかけて活躍した政治家・公家の西園寺公望さんが建てた別邸です。西園寺家の家系をたどると、平安時代の藤原家へとつながる由緒のあるお家柄。西園寺さんも大変に教養の深い方で、坐漁荘は奥ゆかしく気品あふれる日本家屋そのものでした。

建物は、純和風建築で京都出身の西園寺さんらしく京風の佇まい。竹で編まれた入り口を見て、当時近くに住んでいた方は小料理屋と間違えた、なんていうエピソードも残っているみたいです。

zagyoso_01正門の様子。小粋な小料理屋に間違えられるほどおしゃれなつくりです。

 華美な装飾はほとんどなく、質素という言葉がこの坐漁荘にはぴったり。とはいえ、木材は上質なもので外壁にはヒノキの皮で葺かれるなど、細かい部分にこだわったつくりは、日本家屋ならではの良さを際立たせています。

zagyoso_02-5正門をくぐると質素でありながら上品さを備えた家屋が。

1年のほとんどを坐漁荘で過ごした西園寺公望

しかし、どうして京都出身の公家の方が、静岡県の興津に別邸を構えたのでしょう? じつは、西園寺さんは坐漁荘を建てる前から、避寒地としてたびたび興津を訪れていたことが知られています。

海もほど近く風光明媚だったことで、相当に気に入っていたようです。

さらには東京からも程よい距離にあったことが坐漁荘を建てる決め手に。こだわりぬいた別邸の趣向は、建てる当初より長期間の居住を考えてのことだったのでしょう。

また、西園寺さんは公爵という立場にありましたが、これは天皇の側近のような存在です。

明治天皇や大正天皇が興津町(現在は合併されて静岡市清水区興津)を訪れていたことも、別邸を構えた理由のひとつかもしれませんね。

総理大臣を二度も務めた西園寺公望

zagyoso_031928年に大勲位菊花章頸飾を佩用した際の西園寺公望さん
出典元:wikipedhia

ここからは、西園寺さんがどういった人物だったのかについて紹介します。

西園寺さんは明治から昭和の激動の時代に日本の政治を支えた中心人物です。1849年に京都に生まれ、11歳には御所に出仕(宮中でお仕えすること)します。この際に幼少期の明治天皇と親しくなったそうです。その後、幕末におきた戊辰戦争で岩倉具視に見いだされ大活躍、明治維新の立役者のひとりとなります。

明治維新のあとはフランス留学を経て政界へ。岩倉具視や伊藤博文といった近代の日本を作り上げた方たちとともに国政に加わり、1906年と1911年には内閣総理大臣に任命されるなど、時代をけん引するリーダーとなりました。

しかし、だんだんと高齢になってきた西園寺さんは、政治の場から身を引くことを考えます。京都の別荘「清風荘」や興津の旅館「水口屋」へと拠点を移したのち、坐漁荘を建てることを決め、興津へ移り住みました。

この「坐漁荘」という名前の由来は、古代中国の故事である「茅に座して漁した」という言葉からとられています。「(これまで政治家として第一線でやってきたけれど)老いては釣りでもしながらのんびり暮らしたい」という西園寺さんの願いが込められた名前だったんですね。

zagyoso_04玄関口には「坐漁荘」と看板が掲げられています。これを見るとたしかに小料理屋と間違えそう・・・。

激動の時代に政治の中心地のひとつとなった坐漁荘

西園寺さんが坐漁荘という名前に込めた願いとは裏腹に、この邸宅は激動の時代における日本政治の中心地となっていきます。西園寺さんは政界に大きな影響力を持つ「元老」の最後のひとりとなり、若い政治家たちが意見をもらいに坐漁荘を訪れたためです。

元老:げんろう

日本近代史上、明治中期の内閣制度創設から昭和初期まで存在した政界の超憲法的重臣。天皇の下問に答えて内閣首班の推薦を行い、国家の内外の重要政務について政府あるいは天皇に意見を述べ、その決定に参与するなどの枢機をおこなった。

出典:コトバンク

元老は上述の引用の通り、政界に大きな権力を持ち、長い間日本の政治に関わっていた方々です。それだけに人脈は広く、さらには天皇にも謁見できる立場でした。

しかし明治維新の立役者が任命されていた元老は、1920年を過ぎると高齢化が進み、戊辰戦争ではまだ若かった西園寺さんですら70歳を迎えます。そして1922年には山県有朋、1924年には松方正義が亡くなり、とうとう西園寺さんが「最後の元老」となったのです。

それ以降、東京から多くの若い政治家が訪問してくるようになりますが、この人数はすさまじく、「興津詣(坐漁荘詣)」という言葉が生まれるほどでした。

zagyoso_05晩年には1階の応接スペースで来客と対談をしました。ここにも玄関と同じく「坐漁荘」の額縁が飾られています。西園寺さんはこの名前を気に入っていたことがわかりますね。

こうして昭和に突入したのちも政界に大きな発言力を持った西園寺さんは、1940年に惜しまれながらも他界します。もともと病気がちであった西園寺さんは以前に体調を崩した際にも、「どうせ死ぬなら坐漁荘で」と発言するほどにこの別邸を気に入っていたようで、実際に亡くなったのもこの地でした。

zagyoso_06坐漁荘ができた当初は2階の客間で要人との対談をしていました。当時は目の前が海というロケーション。訪れた方がリラックスできる絶景が広がっていました。

日本家屋の風情と昭和の激動の歴史が刻まれた坐漁荘へ

坐漁荘は、西園寺さんの死後、高松宮や徳川慶光が居住したのちに、再び西園寺家へと返されます。1968年になると、老朽化も進んだことで保存と維持の話が持ち上がり、1970年には愛知県の明治村へと移築されました。

現在、興津に建てられている坐漁荘は、当時の図面を忠実に復元し2004年に建てられたもの。建造から100年近く経つ本家と比べるとまだ新しく、かえって西園寺さんが暮らした当時の風情を感じやすいともいえそうです。

興津の坐漁荘は観覧無料でいつでも訪れることができますので、お時間があればぜひ立ち寄ってみてください。もしかしたら、この地で政界の動向を見守りながら物思いにふける西園寺さんの姿が目に浮かぶかもしれませんね。

zagyoso_07西園寺さんが多くの時間を過ごした1階の居間。庭や海を眺めながら激動の時代をどのように見つめていたのでしょうか。

清水区に息づく歴史あるエピソード

興津坐漁荘

住所:〒424-0206 静岡県静岡市清水区興津清見寺町115
電話番号:054-369-2221
営業時間:10:00~17:00

定休日:月曜日・年末年始